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◆ ◆ ◆ 長い夏(4)◆ ◆ ◆

2008/08/09 (Sat) 14:33

お袋は昭和9年9月、旧中村市の有岡に生まれた。
兄弟は妹と弟。
両親は、9歳年下の弟の誕生前後に相次いで亡くなった。
学校卒業後は見習い看護師などをした後、親戚に当たる中村市内の料亭の帳場を任されていた。
親父とは22歳で結婚、翌年姐を、そして4年後に僕をこの世に送り出した。
その後中村市内で喫茶店を開店し、それなりに人気を博していたようで店は何時も賑わっていた。
しかし姐も体は強い方ではなく東京の病院に入院したりしていたし、僕は左足の内反足(ないはんそく)での通院中に両眼球の癌が見つかり失明するなど、この頃の両親は大変な苦労をしたことだろう。
そんな時でも、お袋の口癖は「佳はお母ちゃんのたからもの」だったし、お袋亡き後に見つかった姉の日記にそっと加筆されていたコメントも、必ず「お母ちゃんの宝物の牧へ、お母ちゃんより」という言葉で締めくくられていた。

そしてお袋の更なる悲劇は、その頃心臓病で入院生活を送りながらも唯一身近な同性の相談相手だった妹が32年という短い生涯を閉じたこと。
それでも今蘇る当時のお袋の思い出といえば、とにかく何時も明るい笑顔で家族を照らしてくれていたということばかり。
結局今の今まで、お袋の不平不満なんて一度も聞いたことがないし、良かれと思って行ったことの結果が思い通りのものでなかった時も、また逆効果になってしまった時でさえも、お袋は「かまんかまん♪」と何時も笑顔でやり過ごしていた。

そんなお袋が車の免許を取ったのは50台になってから。
最近では健康体操の指導者として毎日走り回っていた。
早朝に家を出て、高知市でのイベントに参加するために往復5時間余り車の運転をして、夕方帰宅すると、休む間もなく教室で2時間の指導をし、最終帰宅は夜の11時近くになる日もあったという!!
更にそれから新しい曲の振り付けの予習や、生徒に配るテープのダビングなどを済ませ、ようやく寝床に入るのは午前1時を過ぎることも少なくなかったらしい。
特に最近では新しい指導者を養成するために遠出が増え、その時の運転もほとんど自分が買って出ていたとのこと!!
そうな状況でも決して「しんどい」と言わなかったお袋だったけど、最近は「朝が起きにくい」とか「高知から帰ってちょっとだけ横になっちょうがよ(なってるのよ)…あんたはなにしよう??」などと、頼り無げな声で電話をしてくることが増えてきていた。
そんなお袋のギリギリの信号に気付いてやれなかったことが口惜しくて辛くてたまらない。
倒れる二日前にも「なにしよる?」と元気のない声で電話をかけてきて、以前から抱えていたどうしようもない悩みを吐露しながら「お母ちゃんはいったいどうしたらえいろうねー」と溜息をついていたお袋。
翌日(倒れる前日)も、夜の教室へ向かう途中に「ちょっとだけ休ませて」と姉の家に寄り、「ご飯は食べたかえ?」と訊く姉に「食べたよ」と答えて出て行ったというお袋!!
姉はともかくとして、ほんの少しでも医療の片隅をかじってきた僕は、もう少し強くお袋を受診させることができたはずなのに・・・・・。

「お母ちゃんは幼い頃に両親を亡くして、夫婦や親子の形を知らんままに結婚して親になったけん、あんたらぁにもお父ちゃんにも十分なことをしちゃれらった(してあげられなかった)かもねえ…」などとすまなそうに言っていたお袋!!
申し訳ないのは僕の方です。
もっともっと心身共に楽をさせて、助けてあげることができたはずなのに……!!
ごめんよお母ちゃん。

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